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コポコポと小さく音を立てると同時に憎めない、甘く包み込まれるような匂いが部屋中に充満する。彗蓮は小さく持ち上がっている秋萄の唇のはじっこを眺めながら、目を細めて一度大きく其の香りを吸い込む。
其の大きな期待を知ってか、秋萄は大げさなほど湯気を立たせた二つのカップをお盆に乗せて、零さない様に平衡を保ちながら何処となく足早に彗蓮の座るテーブルへと歩いていった。
「お待たせ」
「ココアだよねっ!」
「そうだよ」
匂いで分かるんだあ、と満面の笑みの彗蓮に釣られ、自然と秋萄も微笑む。
インスタントであっても喜んでくれてよかったと、少しばかり安心した。いや、しかしながらインスタントを馬鹿にしてはいけない。何時の時代にも便利さを求めてきた研究者達も行き着いた場所を知ったならば何処かで得意気な顔をして満足しているかもしれない。其れだけインスタントと言うのは完璧で敵わなかった。色んな知識や技術を物凄いペースで詰め込まれてパンクしそうで、其の分の優しさだけは何処かに置いてきてしまったらしいが。
「あ、つっ…!」
ゾクリと何かが背中を這った。
「大丈夫!?」
「えへへ、大丈夫だよー」
大げさだなあと言いながら、チクチクと痛そうに一層赤くした舌を少しだけ覗かせ笑った彗蓮を見て、秋萄は首を傾げた。同時に出来かかった別の思いには気付かなかった振りをして無視をする。
火傷も一種の怪我だと言うのに何故か彗蓮はとても幸せそうで、けれどそのニコニコ顔を見ていたらさっき出かかった醜い自分がとても罪深くて、結局チキンに成り下がった心の下僕は何も発してはくれなかった。
「どうして笑ってるのって?」
一瞬にして心を見破られた。それもあったけど、純粋無垢な大きな瞳は何もかも見透かしているようで、今の心臓の音さえも直接聴こえているようで、少しだけ吃驚すると同時に恐怖を覚える。質問の答えはイエスしかなかったから、戸惑いながらも小さく頷いた。
「…うん」
「なんでかな?」
「へ?」
切り替えされても困ったものだ、分かるのは君しかいないと秋萄は心の中でツッコミを入れる。余りに阿呆顔をしていたようで、彗蓮は秋萄を見つめて、クスっと笑い出した。初めは口元を隠して堪えようとしていたのに、秋萄を盗み見してはどんどん声が大きくなって、最終的には隠そうともせず腹を抱えてゲラゲラと笑った。ご丁寧に指までさして。
どうしてよいのか分からなくなった秋萄は取り敢えず、少し剥れながら頬杖を突いて彗蓮が笑い止むのを待つ事にした。
「楽しいからなんじゃないかなー」
思う存分笑った後で、目尻に溜まった涙を拭いながら彗蓮は何処から繋がってるのか分からない答えを紡ぎ出した。 唐突過ぎて秋萄にはついていけなかったから、え?と訊き直したのに彗蓮は其の言葉を二度は言ってくれなかった。その代わり、楽しいのが一番だよ、と大それた事をもう結構な時間が経ったのにまだ大胆に湯気を立たせているココアを、今度は用心深く啜りながら呟いた。
「火傷するのも楽しいの?」
「其れは違うけど…、違わないかも」
「なにそれ」
「楽しまないと、損だもん」
筋が通って無さそうな彗蓮の論理は、その辺の出来合いの物よりもよっぽどよい物に聞こえたけど、先程芽生えた眩しさとか憎さとか切なさとか、きっとこんな純粋な子には見せたくても見せられない自分のうちの汚さが邪魔して素直に頷くことが出来なかった。
「…全てを楽しむなんて、無理だよ…」
「…だからってずっとそう思ったまま、何も楽しまないで生きてくの?…そんなの、いけないよね」
楽しむ心を忘れてしまった、心からの笑顔を失ってしまった、幸せで居る事を許さなかった、心が脆く崩れ去っていく。インスタントと同じように、何処かに置いてきてしまった心が、直ぐ手の届くところにあったらいいのに。そうすれば、自分も真っ白に、後戻り出来るかもしれないのに。
「…知ってるよ、」
痛いくらいに、目の前がぼやけていく。瞳に染みたのはココアの湯気じゃないのだろうか。
あふれるもの
(たのしいってなんだっけ、)