何時もは愛する妹の為に毎日の3時のおやつでさえ手作りすることを厭わないのに、 本日眠い目を擦りつつお菓子作りに励まないのには理由があった。 それは単純明快、鶴の一声ならぬ妹の一声が理由であるが、新しくオープンした駅前のケーキショップには連日客足が絶えず 更には数あるラインナップの中でも、モンテビアンコが嘗て無い程の美味しさだと巷で評判を呼んでいて、妹が其れを食べたいと言い出したのだ。 妹の為なら地の果てまで飛んで行ける程の溺愛っぷりを見せる黒斗が二つ返事で承諾した為、 本日のおやつはモンテビアンコに決定した。
 元々黒斗自身も甘味は大好物だし、何より妹を喜ばす為なら寝不足で疲労が溜まった体にでも喝を入れることが出来る。
 昼時になると主婦を中心に混雑すると予想し、開店と同時に滑り込む感じで行こうと時間を見計らって身支度をする。 とは言っても外見に左程気を使うタイプでも無いため、新しいコンタクトを入れて着替えをするくらいだ。
 最近は暖かいのでマフラーは要らないだろうと踏んで、外に出た。ふっと飛び込む眩い光に目を細め、くしゃみを1回。 矢張り少し寒かっただろうか?しかし靴をもう一度脱ぐのも面倒だったので歩いていれば暖かくもなるだろうと其の儘歩き出す。



 噂のケーキショップには開店前だと言うのに数人の行列が出来ていた。予定より少し早く着いたがまもなく開店なはずだと同じように最後尾に並ぶ。 黒斗の前に並んでいるのは小さな子どもを連れた母親や老夫婦で、現役学生である黒斗は完全に浮いている。
 現役学生と言っても今年は卒業年であるし、必修以外は全て取得しているので大学に通うのも週2程度の物である。 そもそも黒斗は必修以外は午前中しか授業を組まない。(其れが妹のおやつや夜ご飯を作るためだと同期に言った時は、驚愕と呆気で微妙な顔をされた。)
 加えて、夜行性であり授業の大概は寝過ごしてしまう為、大学に顔を出す事自体珍しいのだが、試験重視の科目を履修し持ち前の記憶力と頭脳でカバーして来た。
 危うかった科目と言えば体育だ。運動が苦手な上に出席しなければ単位が貰えない。 其の為体育がある前の日は眠くないのに12時前には布団に入り覚醒する脳と闘い、結局は一睡も出来ずに貧血気味で参加していた。
 対して妹の紫悪音はと言うと、成績も悪く無ければスポーツも万能と言った処で、羨ましいと思った事は無いが自慢の妹だと常々思っている。
 そんな妹の為に並んでいるケーキショップは、準備が整わないのかまだ開店しないようだ。 ぼーっと待っていると掌がじわっと暖かくなって来て、立ったままでも寝られそうだった。
 足の感覚が無くならない様にくぁ、と欠伸を噛み殺したところで、背中に軽い衝撃を覚える。
(…ん?)
 ちらっと横目で後ろを見ると、ふわふわとした栗色の髪が揺れているのが見えた。 その髪の持ち主は女の人だった。さわさわと揺れるロングスカートが如何にも女性です、と言った感じだ。 恐らくぶつけたのであろう頭を押さえながらゆっくりと面を上げたその人と目が合う。
「あら…ごめんなさい、少し躓いてしまって」
「あ…いえ…」
 咄嗟に、(躓く…?)と疑問を抱いたが、口にするか迷っていた処、依然頭を押さえたその人自身が歌うように言葉を紡ぎ出した。
「今日は何だか良いお天気だから眠くなっちゃうんですよ、ふふっ」
「…ああ…解ります…」
 眠くなると躓くの掬び付きがとんと理解出来なかったが、眠いのはその通りだったので小さく頷く。 黒斗は喋り方がスローだと言われる事が偶にあるが、それ以上にゆっくり喋るその人に釣られて更に間を置いてしまう。
 ところで、とその人は切り出した。まるで知り合いかの様に親しみを持って話し掛けてくるので、本当に知り合いだっただろうかと錯覚する。
「ところで、此れは何の行列かしら?」
「…は?」
 この人は並んでる訳じゃないのか?と疑問符を飛ばす。 訝しげな顔をする黒斗の様子に構う事も無く、その人は微笑んで首を傾げる。 恐らく、答えを待っているのだろう。
「ケーキ…」
 と、黒斗が呟くと、
「あら…、ケーキ屋さんなの?」
 将又その人は頓珍漢な返事をした。
 普段は口下手で自分発信する事はほぼ無い黒斗だが、気になっていた事を恐る恐る訊ねてみる。
「…並んでいた訳じゃ…ないんですか」
 その人は微笑んで、
「散歩していたら行列が出来ていたので、面白そうだから並んでみたのー」
 たっぷり時間を取ってそう言った。
(変な、人だ…)
 その時、カランと鳴ってケーキショップのドアが開き、お待たせ致しました開店致しますという声と共にゾロゾロと行列が進み出す。 黒斗も前に向き直って変な人と共に店の中に足を踏み入れる。途端にふわっと香る甘い匂いに脳が覚醒する。



 果て、どれ程時間が経っただろうか。 黒斗の用事はモンテビアンコと、序でに自分の分のケーキを選ぶだけ(別にモンテビアンコ2つでも良い)だったので、それ程時間は掛からない筈だったが、 先程黒斗の後ろに並んでいて且つ躓いて黒斗にぶつかり、何故並んでいたのかも分からない女の人のオーダーに如何してか付き合っていた。
 その人はその喋り方が象徴するように、全てに於いて行動が“ゆっくり”だった。
 私もお土産に買って帰ろうかしら、と言ってから早数十分。ショーケースを眺めては「此れも美味しそう…」「別々の方が良いかしら?」等と呟きながら行ったり来たりしていた。
 面倒見の良い黒斗は、最初こそは黙っていたものの自分のオーダーもそこそこ、一緒にその人の後に付いてショーケースを行ったり来たりしていた。
「何個…買うんですか」
「10個…あら?11だったかしら〜?」
「…」
 なんと。絶句する黒斗に気付く事無く、その人は「12だったかも…」と呟く。
 一抹の不安を覚えてショーケースの向こう側で待機する店員を見遣ると、同じように引き攣った笑顔を見せている。 はあ、と小さく溜息をついて、開店時点から半分ほどになっているモンテビアンコを指差す。
「これ…、が、人気らしい…」
「これ〜?」
 店員が全力で頷いているのが見えた。
「“Monte bianco”…確かに美味しそう〜」
 そう言ってその人はニコニコしている。ニコニコしているだけで、決断する材料にはならなかったようだ。 店員と目を見合わせて肩を落とす。
 その人がケーキを選びきるまでに軽く数時間が経過した。 人気商品であるモンテビアンコも次から次へと売れていき、その人が手に入れたのは結局2つ程だった。 勿論その時点でモンテビアンコはケースから姿を消し、同時に【完売しました】の札が置かれる。
 選ぶ間ずっと微笑みを絶やさなかったこの人は、ケーキが詰められて行くのを楽しそうに見ている。
 余りの長丁場に、商品の精算時には店員が気を利かせてイートインの座席に案内してくれた。 「お付き合いお疲れ様です」そう言われたような気分だった。
 箱を手にしたその人は黒斗の方まで近づいてくる。
「無事に買えました、有難う御座います」
 と、丁寧に頭を下げる。ガタガタと音を立てて席を立つ。
「悩みましたけど、2つずつ買って帰ることにしたの」
「そうですか…」
 其処ではて、とその人が気づいたように言った。
「そういえば、お名前は?」
「黒斗…です」
「黒斗さん。私は泣依と言います」
 完全にタイミングを間違えた自己紹介が何とも可笑しい。うふふ、と笑うその人を見て、少し笑ってしまう。
 その時、クロ兄!と明るい声が聞こえた。 振り向くと、桃色の髪を揺らした紫悪音が店の入り口に立っていた。
「しぃ」
 久々でもないのに、何なら今朝あったのに愛しいその顔を見ると途端に笑顔になる。
「あれ、学校は…」
「もう終わったよ?」
 そうか、何時間も此処に留まっていた所為で、妹が学校から帰ってくる時間も過ぎてしまっていたようだ。
「クロ兄、帰ってこないから心配しちゃった!」
「あ、ごめん…」
「クロ兄寒そうな恰好だね!…あれ?てっきり買って来るのかと思ったら今日は此処で食べるの?」
 紫悪音の目線が黒斗の手に移る。どういう意味なのか理解出来なかったが、同じように自分の手を見て驚く。 隣に立つ人のケーキ選びに付き合っている間に、自分の買い物をするのを忘れてしまっていたようだ。 自分の両手は空っぽだった。其れを見て、紫悪音は疑問を抱いたのだろう。 泣依も其れに気付いたようで「あら」と呟いていた。
 此処で食べるのも良いか…と思ったが、はた、と気づく。 そういえば泣依が買ったモンテビアンコが最後の物だったのではないかと。
 嫌な予感がした時に紫悪音があれえ〜!?とショーケースの方に寄っていく。
「もうモンテビアンコ売り切れちゃったの!?早いよおーっ!!!」
 本当に残念そうな声が店内に響き渡る。店員さんが申し訳なさそうに「本日分は完売してしまいまして…」と呟いている。 黒斗は如何しようかとおろおろしていると、隣で静観していた泣依がゆっくりと紫悪音に近づいていくのが見えた。 何だ?と思っていると、泣依は例に依って、歌うように
「私の分、差し上げます〜」
 手に持つ箱を掲げながら言った。
「…へっ!?」
 紫悪音は素っ頓狂な声を上げる。パッと振り返った顔は、うっすら涙が浮かんでいたが驚きでいっぱいだった。
「黒斗さんの妹さん〜?お兄さんにはお世話になったので、プレゼントします〜、どうぞ食べて」
 ニッコリと柔らかく微笑みながらそう言う泣依の顔を見つめながら、紫悪音は口をパクパクとさせている。 依然として状況が呑み込めないようだった。
 又不可解な事を言い出した泣依を見て黒斗は悩ましげに頭を抱えたが、泣依は其れに気付く事無く店員に声を掛けていた。



「本当に良かったんですか!?譲って貰っちゃったし、それに…そうだお金!!」
 ケーキショップを出てからというもの、紫悪音は止めど無く喋り続けている。 泣依はと言うと其れを聞きながらうふふ、と笑っていて、黒斗は何も言わずに黙っていた。
 あの後、店員にモンテビアンコを分けるように申し付けた泣依は慌てる紫悪音と黒斗をまるで気にしていないのか其れとも気付いていないのか、 2つのモンテビアンコを入れた箱を紫悪音に渡すと構う事無く店を後にした。
 呆気に取られて出遅れた兄妹が慌てて追いかける展開となったが、例の“ゆっくり”動作の御陰で直ぐに追いつくことが出来た。
 その後の状況が此れである。まったりとした泣依の空気に呑まれ、何だか「まあいっか」という気持ちになってくるのである。
「じゃあケーキの代わりに何かしますよ!!」
「いいのよ〜ふふっ」
「でも、貰いっ放しなんて!」
「ふふっ私だって、偶には誰かの役に立ちたいの」
 えっと…と詰まる紫悪音を置いて、泣依は立ち止まって黒斗の方を向く。
「今日は本当に有難う御座いましたー」
「あ、いえ…此方こそ…」
 それでは、と言って、行ってしまいそうになる泣依を黒斗は呼び止めた。 咄嗟の行動に自分でも驚く。同じように紫悪音も普段見ない兄の姿を見て驚いていた。
「家に…来ませんか」
 どもりながらそう呟くと、あらという泣依の声とえ!という紫悪音の声が重なった。
「いや、あの…もう夜ご飯の時間だし…夜ご飯ご馳走するので、」
「一緒にケーキを食べればいいんだ!いいねっそうしようそうしよう!」
 言った瞬間、何を言ってるんだと思い重ねて説明をしていたら、言い訳がましくなった。 しかし黒斗の意図を読んで賛同した紫悪音はとても喜んでいて、ぴょんぴょん飛び跳ねている。 なので言った自分も、其れでいいかという気分になる。
「でもいいんですか〜?」
「クロ兄の手料理すっごく美味しいんだよ!だから一緒に食べようよ〜!」
「あら……、じゃあお邪魔しようかしら」
 ふふっと笑う泣依を見て、紫悪音はじゃあ決まりね!と言った。 楽しそうに会話をする2人を見て、本日何度目かの「まあいっか」が生まれる。
 ぷるっと体が震えてくしゃみが出た。忘れていたがもう夕方だ。こんなに遅くなるつもりはなかった為に薄着が裏目に出る。 寒い、早く帰ろう。そう思った処で、泣依が、
「そういえば私、モンテビアンコの代わりのケーキを買い忘れてしまったわ〜」
焦る風でもなく言った。

斯くして買い戻りに行く羽目になった一行が帰路に着くのは又更に後の事であった。










Monte bianco