香草入りの紅茶の香りがした。甘い匂いの漂った玄関前は、扉を開けた瞬間、カラフルな果実が溢れ出てきそうな有名な童話に出てくるお菓子の家の入り口のようだ。
この匂いが漂う時はそう、決まってあの人がいる。


「ヘレネさん!?」


大声で玄関扉を開けながらその人の名前を叫ぶと、キッチンに「お帰りなさい」と微笑みを浮かべたヘレネさんが居た。やっぱりヘレネさんだ〜と喜ぶわたしにクロ兄がおかえりと小さく言った。


「ただいま〜」
いつもの第一声と順番が逆になってしまった。
反省するのも束の間、その甘い匂いに釣られてキッチンへ向かう。鞄を置くのは後だ。
ヘレネさんの隣に立って、手元を覗き込むと、本当に美味しそうなアップルパイがあった。
一つずつ型どられた美しいパイの円形は直径5センチほどだろうか。それらひとつひとつが薔薇の形をしていて、花弁に例えたアップルのカットは繊細で華々しい。花弁の先はアップルの皮の紅色が凛として彩っていた。その花弁一枚一枚が甘い蜜を身に纏い、つやつやと輝いている。


「わぁ〜美味しそう〜!」

紫悪音は目を閉じて胸いっぱいに息を吸い込む。香ばしいパイ生地の匂いと、甘く煮込んだアップルの匂い、そして上品な紅茶の香りが頭から爪先までを駆け巡り、全身に充満する。

「いい匂〜い」

紫悪音がうっとりした声を出すと、隣からくすっと笑い声が聞こえる。目を開けて少し斜めを見上げると、気品溢れる微笑みがあった。本当に端正な顔立ちをしている。所作も丁寧で品があるし、この人は「美味しそう〜!」なんて言わないんだろうな、と思った。

「紫悪音さんは、本当にお菓子が好きなのね」
「勿論!ヘレネさんは違うの?」
「私も好きよ。甘味は休息になるもの」
「休息かぁ」

確かに、疲れた時は甘いもの!とは言うものの、そんな風には考えたことなかったな、と紫悪音は思う。ヘレネさんが小皿に分けてくれたアップルパイをお盆に乗せながら考える。ヘレネさんは、わたしと3つ程しか変わらない。兄の黒斗よりも年下で、偶にお茶目なところはあるものの、全く別世界の人だと感じる。人並み外れた外見も、見惚れる程の優美さや話し方だって、どこを取り上げてもそうだ。周りにはいない。ヘレネさんが持つ世界だ。


お盆をテーブルに運ぼうとして、漸くまだ鞄を肩に掛けたままだったことに気付く。何時もならこのままお盆片手に持って行くところだが、今日は何となく恥ずかしい。それもやっぱりヘレネさんがいるからだ。


自室に置きに行こうとリビングを通ると、何時もはこの時間妹の為にお菓子か夕飯を作っている黒斗は、その役を失った為か、所在なげに椅子に腰を下ろしていた。

「クロ兄、アップルパイ準備出来てるよ」
「…ああ、持ってくる」

クロ兄がいそいそとキッチンへ入っていく様子を見守ってから自室へ向かう。鞄を置いてキッチンに戻るとヘレネさんは紅茶をカップに注いでいるところだった。

「いい香り!これってあれでしょ?蜂蜜を混ぜると美味しい紅茶」
「そうよ。流石紫悪音さんね。記憶力がいいわ」
「そんなそんな!」

ヘレネさんに褒められると嬉しい。
少し照れながら、ミルクピッチャーに蜂蜜を注ぐ。甘い香りが更に加わり、育ち盛りのお腹を刺激した。


「はい、準備が出来たわ」

黒斗がアップルパイの小皿をテーブルに移し、戻ってきたお盆に、ちゃっかりソーサーを置いていく。真似をするように紫悪音も蜂蜜を注いだミルクピッチャーを置く。きっちりスプーンまでセットされたお盆を、黒斗は何も言わずテーブルに運ぶ作業に戻った。その姿を見て2人で顔を見合わせて微笑む。


「ごめんね、ヘレネさん、クロ兄無口だから」
「気にしなくてもいいわよ。以前から知ってることだもの」


くすっとヘレネさんが思い出したように笑う。





ヘレネが我が家にこうして遊びに来るようになったのは、1年程前のことだった。黒斗と紫悪音はその日、揃って街に繰り出していた。休日だったその日は例に倣って人で溢れていた。目当てのプリンを買って帰路につこうとしていたところ、紫悪音は小さな段差に躓き、前につんのめりそうになって大袈裟にバランスを取った。黒斗はそれを慌てて助けようとしてバタバタしていた。しかし、そんな兄妹よりも、もっと注目を集めている人がいた。周囲がザワついたので、人々の視線の先を辿ると、今までで見たことの無い程の美女がいたのだ。それがヘレネさんだった。 美女と目が合っている――そう勘違いするのは男ばかりではないみたいだ。女の自分でも浮かれてしまいそうになった。さながら、それは勘違いではなく、美女が自分の方に真っ直ぐ向かってきて、キラキラ輝く橙の瞳に紫悪音の姿を映して言った。



「ご無事で?」






ヘレネさんがあの時放った言葉を今思い出すとむずかゆい。あの時ヘレネさんは転けそうになった自分の身を案じて言ったのだ。しかし、「ご無事で?」なんて、執事ドラマでしか聞いたことがなかったわたしは暫し混乱し、変な声しか出なかった。直後、咄嗟に思い出したプリンの箱を急いで開けてみるとバランスを崩した時の被害か、通常のプリンの形状とはかけ離れた姿をしていて落胆した。


「無事じゃ、ないです…」


あの時そう言った自分を偶に呪いたくなる。プリンの無事なんて、誰も訊いてないよと。





苦い思い出のある初対面は、ヘレネにとっては可笑しい記憶であるようで、コロコロと笑う。

「黒斗さんはあの時、全くお話されないんだもの。急に、従者なんだわと勘違いし始めて…」

そうなのだ。ヘレネさんは、クロ兄のことをわたしの召使いかなにかだと思い込んでいたようで、兄妹だと知ったときは本当に驚いていた。
その後、ヘレネさんは詫びと言ってわたし達が買ったものよりも、もっと高級なプリンをご馳走してくれた。熱々のキャラメルがたっぷりかかった、クリームのようなプリンだった。詫びる程のことではないし、ご馳走される義理もないのに…と恐縮していたところ、ヘレネさんはこんな事を言ったのだ。

「また、私と遊んでくださらない?」



ヘレネさんと交流を持つようになったのはそれからだ。外で会うのは周囲の視線が熱く、長居はしていられないから、と我が家にも遊びに来るようになったのだ。
ヘレネさんは紅茶が好きで、それを淹れると部屋中が高級な香りでいっぱいになる。2人の甘党を知って、毎回美味しそうなお茶菓子を用意してくれて、わたしの帰りを待ってくれている。香草のたっぷり含んだ紅茶の香りがすれば、ヘレネさんがいる。
それは、紫悪音にとってとびっきりの時間だった。


「さて、紅茶が冷めてしまうわ。頂きましょう」


ヘレネさんが言った。リビングに向かう背中に連れ添いながら、部屋中に漂う甘い香りをもう一度大きく吸い込む。行儀が悪いと誰に思われたって構わない。
ヘレネさんがいて、兄がいて、甘いものを食べる。これこそが幸せだな、と自然と言えてしまえるのだ。