淡い色を帯びた月は、昨日より少し遅く、勿体振るように顔を出した。
まんまるに見えるけれど、今夜は十六夜だ。僅かに、そう、気にかけなければ気が付かない程少しだけ欠けている。
雲一つ無い、月だけが浮かんでいる空は、凛とした空気を纏って恍惚ささえ覚える。
いつか見たような夜空だ。微かに懐かしい記憶がじんわりと胸に充満する。


月明かりに照らされた君の漆黒の髪は、闇に溶け込むでもなく存在感を示している。
髪だけではない。日焼けをすると真っ先に赤くなりそうな雪肌は一層白く見えるし、赤眼は赫奕と輝いて見える。
一見幼く見えるのに、にっこり笑った顔だけは何処か上品さも兼ね備えていて、途端に年齢が分からなくなる。
実年齢は、その容姿から見受けられるよりももっとずっと上だと聞いた時は、ああやっぱりと思った。
何千年も何万年も経っていても、その魅力が一向に衰えない月のように、この人もきっとそうなのだろうと思った。
変わることのない、寧ろ年を増す毎に増す魅力。そしてその中でも特に、


「今夜は月が、」


綺麗だ。なんて、そんな台詞、言えるような柄じゃない。
だから俺は、続かない言葉をそのまま飲み込む。
いつも自分は少し足りない。満月よりも僅かに細くなった月のように、勇気とか優しさとか強かさとか、何もかもが少しずつ欠けている。
飲み込んだ言葉の代わりに出てきたのは、全く気の利かない、情緒の欠片すら無い言葉。


「昨日より上がってくるのが遅いね。」


俺の精一杯の言葉は、君にはどう伝わったのだろうか。
燃えるような赤眼が俺の姿を捉える。
じっと見つめた後にくすっと笑って、君は言う。


「十六夜の月は恥ずかしがりなの。」
「恥ずかしがり?」
「そう。ぐずぐずしてるの。思い切りがないのね。」


俺は言葉を失ってしまう。俺の反応をちらっと窺った君は、興味が無くなったようにマグカップを指でなぞり始めた。
十六夜の月はまだ低い。
温まる為に飲み始めた筈だけれど、既にぬるくなってしまった紅茶の水面に、淡く映った月が揺れている。
ああ、本当にお前は、どっしり構える事が出来ないのか。

なんだか情けなくなってしまう。焦った俺は、何か次の話を、と話題を探した。

「昔、夜中に森で迷子になったことがあるんだ。すごく小さい頃。持っていたランタンも灯が消えてしまって、真っ暗で。
その時は助かる呪文(すべ)も何も持ってなくて、悲しくて怖くて一人で泣いて…」


何故こんな話を始めたのか、自分でもよく分からない。
けれど、絵本の続きを待つように、君は静かに俺の顔を見つめていた。
その目を見返す事が出来なくて、虚空を見つめる。
次の頁には何が書いてある?記憶を探る。大した話にはならない、視線を受ける頬が少し熱くなる。


「多分、何かの探し物をしてたんだ。きっと大切なものだった。
だけど記憶に無いから、見つからなかったんだと思う。」


「何を、失くしたの?」

「さあ…」



次の頁を捲っても、それ以上言葉は何も出てこない。頭の中でペラペラと頁を捲る音が響く。
情景だけがぼうっと浮かぶ。
真っ暗闇の中で、僅かに毀れる光。その光を目指して深い闇の中をひたすらに歩いた。
怖くて、震える手で自分の衣服を握り緊め、
ただ探し物は見つかると信じて、絶対にここから無事に出られると信じて、歩いて行った先には何があった?

読者に見解を委ねる最低な形で幕を閉じた絵本を、君は文句も言わず、ただ黙って聞いていた。


「俺が、言いたかったのは、つまりその…」


もごもごと口の中で言い訳を探す。そんな俺を見て君は、くすっと今日何度目かの同じ笑い方をする。
その仕草に、その様子に、幾許かの安堵と緊張を覚える。



「あの日は十六夜だったんだ、多分。」


覚束ない声が、雲のない夜空に消えていく。
自分でも、何が言いたいのかよく分からない。けれど既望は確かにあの日、俺を助けた。
そっと、背中を押すように。ぎゅっと、手を引くように。
ただ、それだけ。
それだけだけど、すごくすごく安心したんだ。上を向いて歩けるようになったんだ。
それからだ、十六夜に特別な感情を持つ様になったのは。


ちらっとだけ、今まで合わせられなかった目を見てみた。
意外なことに君は、微笑みを浮かべていた。
どきっとしてまた目を逸らしてしまう。
もう既に冷めてしまった紅茶に、月は映っていなかった。
どうやら、やっと高いところまで昇っていったようだ。



「ねえ、私、誤解されないように言っておくけど、」

君は夜空を仰いで言う。




「“十六夜の月”は嫌いじゃないのよ?」




はっとする。もしかして。いやまさか。そんなこと、あるはずがない。でも、もしそうだとしたら?
俺が今夜の月に自分を重ねているように、君も同じことを…?


“いざよう”俺を、君は笑った。
今日、否、今、言わなければ。そう決めた。


「今夜は月が、」










十六夜の月