その船は、昨日の夕方、南寄りの方向に太陽が沈みかけた頃に到着したらしい。

夜通し作業を行って、其れでも終わらないので手伝ってほしいと友人に頼まれ、
まだ、日の目も見えない早朝に、パリスは宿舎を後にした。

呼吸をするのも忘れたように静まっている町が、微かに浮き足立っているのが感じられる。
ピシっと張りつめたような冷たい空気を吸い込み、眠気を飛ばす。
寒さを忘れるためか、ざわつく胸を払拭するためか、自分でも良く理解出来ぬまま、走った。
海に近づく度、磯の薫りが濃くなっていく。
感情が噎せ返る。海が、嫌いになりそうだった。





現場に着く頃には自分でも驚くほど息が上がっていた。
パリスに気付いた友人が、変なところで体力使うなよ、と脱力気味に笑った。
船から搬出された諸々を見つめて、こんなにあるのか、と驚く。
開けた港湾であったことが、皮肉にも素早い対応に繋がる結果となったのだ。
パリスは唇を噛み、作業をしている群衆の方へずんずんと進んでいった。





一頻り作業が終わりかけた頃には、少し空が明るんでいた。
ふと息を吐いたパリスは、先程は暗くてよく見えなかった船の大きさに気が付く。
「おぉ〜でけぇ…」
思わず声が出た。
煌びやかな雰囲気に圧倒されて、ただただ近くで見つめていると、甲板に立っている女性と目が合った。

「君は、この船の乗員かぁー?」
少し大きめの声で訊いてみたが、届かなかったようで、女性は首を傾げた。
もう一度、今度は更に大きめの声で訊いてみたが、それでも駄目だったらしく、 女性は首を振って、手で合図をしてきた。こっちに来いという意味らしい。
パリスは、搬出用に備え付けられた通路を通って船の中に入り、甲板へと足を踏み入れた。





「君は、この船の乗員?」
待ち受けていた女性に、何度目かの同じ問い掛けをする。
「そう。あなたはこの町の人?」
「いや、違う。手伝いにきたんだ」
「そうなんだ」
女性は軽く頷いて、甲板の外に目を向けた。
隣に並んでみると、作業場となっていた場所が一望でき、先程パリスが立っていた所も見えた。
夜通しの作業に疲れて平地に座っている男性もいれば、固まって作業をしている女性達もいた。
その光景を上からぼんやりと眺めているのは、不思議な感覚で、まるで乖離してしまった孤島にいるようだった。



「でかいよな、この船」
「そうだね。普段は客船なんだよ。私はそこで楽団員をしてる」
「楽団員?演奏すんのか?」
「そう。コントラバスを弾いてる」
そう言いながら女性はちらっと後ろを見遣った。同じように振り向くと、大きな黒いケースが目に入った。
「あれが相棒」
「へえ。君、小柄なのに」
「よく言われる」
くすっと、その女性は笑った。しかし、直ぐに笑みは消える。

「何度かこの町に来た事があるけど、その時とは随分変わっちゃった」
パリスはその言葉に同感したが、そうだな、とも、うん、とも言葉が出て来なくて、ただ力無く頷いた。
「この町、音楽町として有名でね。私も何時か招待される位有名になって、演奏しに来たかった」
「諦めるのか?」
「いや」
「きっと、叶う。諦めちゃ駄目だ」
「…本当はさ。此処に来るまで、ちょっとでも音楽で癒してあげられたらって思ってたんだ。
でも浅墓だったなって、今日この光景を見て思っちゃった」
苦しそうに、呟く。言葉の節々から、普段は凛としている人なんだろうな、と推測出来た。
そんな人が選ぶように言葉を紡いでいる。この人が奏でる音楽はきっと丁寧で繊細で、滑らかなんだろう。



「私は演奏家だけどまだプロではないし、今日の夜には此処を発ってしまう。
出来る事なんて、これっぽっちも無いのかもしれない」
「そんな事無い」
パリスは言葉を遮るように言い放った。

「出来ることが無いなんて、そんな事は絶対に無い。
自分がやりたいと思ったことはやるべきだし、出来ると思った事はやらなきゃ勿体無い。
音楽をみんなに届けたいと思ったんだろ。癒してあげられると思ったんだろ。
だったら、やらなきゃ」


パリスは女性の手を握った。突然の事に驚く女性を引っ張って、黒いケースに手を伸ばす。
先程の言葉は、自分に言い聞かせた言葉でもあった。
気合いを入れる。諦めるな。
振り返って、力強く言った。


「行くぞ!」






ヴォン…と低音が響く。それは疲れ切った町の空気に、確かに浸透した。
女性が奏でるコントラバスは、実に丁寧で繊細で、滑らかだった。
炊き出しをする女性陣、座り込んで其れを食す男性陣が皆、手を止めて一点を見つめる。
目を瞑る者、口を抑える者、下を向く者、天を仰ぐ者。其々だった。
各々の思いを噛み締め、其の演奏を聴いた。
届け。届いてくれ。パリスは祈りながら聴いた。


数分か、或いは数時間か。幾らか分からない時間が経って、細やかな演奏会は終わった。
小さく始まった拍手は次第に歓声を交えた大きな物へと変わっていった。
女性は深々とお辞儀をして、何時までもそうしていた。拍手は止まなかった。






「ありがとう」
パリスの方に近寄ってきた女性が言う。
「私にも出来る事があった。あなたの御陰で踏み切れた」
そう言った女性は今日一番晴れやかに笑った。
「君は伝説になる。なってくれなきゃ困る」
パリスもニカッと笑って言った。
「勿論!有名なプロのコンバス奏者になってみせる…。
ラムと言う名を覚えておいて。有名になってまた戻って来るから」


別れを告げて別々の方向に歩み始めた二人の上空には、既に太陽が顔を出して、町を少し温めていた。






Cold Concert