一目奪われた時から、運命は決まっていたのかもしれない。





真夜中の空に映える月は、暗い闇に一層光り輝いて見えた。
埃っぽいこの街では、星があまり見えない。だからかもしれない。
何時もは気にも留めない夜の通行人。月明かりを反射させた橙の艶やかな髪に目を奪われた。
驚いたのは、こんな夜中に女性が一人で歩いていたからではない。その女性が余りにも美人だったからだ。
大判のストールを頭からすっぽりと被っていても目立つ風貌。きめ細やかな肌。桃の様に淡く色付いた頬。 一文字に結ばれた紅の唇。夜の光を目一杯に取り込んだ輝く瞳と深く彫り込まれた二重瞼。 両耳にさりげなく付けられた真珠のピアスは艶やかというよりも気品を感じるものだった。
何処を取っても、この街には似つかわしくないその姿から目を離せなくなる。


ふと、髪と同じ色をした瞳が此方を向く。
肩が跳ねた。見ていたのが気づかれたのかと思った。 しかし、目を反らす事が出来なかった。あまりにも真っ直ぐな瞳をしていたからだ。 数秒、いや、本当はもっと短かったのかもしれない。沈黙が流れる。何かを喋らなければ、咄嗟にそう思った。
しかし言葉が見つからず、口を開けては閉じた。その沈黙を破ったのは、意外にも、遠くで響いた誰かの怒号だった。

振り向いたのは、女性の方が先だった。
同じ方向を見ると、先程の声の持ち主が此方に向かって走っているのが見える。まだ少し距離はありそうだった。
どこかで泥棒でもあったのか?そう思った時、女性が此方に向き直って言った。


「この街にお詳しい方?」
「え、まあ…」
「私を案内してくださらない?」
「案内?」


自分でも素っ頓狂な声を出したのが分かり、恥ずかしさが込み上げる。
しかし意志の強そうな橙の眼差しはぴくりとも笑わなかった。その眼差しに観念したのか、既に肝を据えた自分がいた。


「…ひとつ訊いてもいいか」
「何かしら」
「あれはお前のダチか?」


あれ、と言いながら尚も此方に向かって近づいて来ている人を指さす。


「ええ、そうよ」
初めて、女性は笑った。


「わーったよ…こっちだ」
畜生、また面倒なことになりそうだな、と思いながら細い路地に女性を押し込んだ。







幾許の時間が経ったのかは既に分からないが、女性と共に声の聞こえぬ方へと走り続けた。
女性は意外にも体力がある様で、風に靡くストールを押さえながら同じスピードで付いてくる。
対して、追っ手は既に体力を酷く消耗していたようで、少しずつ声は遠くなっていった。


「あの上に登るぞ、丁度いい隠れ場所がある」


ぱっと振り返ると玉の汗を額に乗せた女性が少し笑った。
ドキっとした事を悟られないように、上に登る梯子に手を掛けた。
頂上に着き振り向くと、女性が後を追って登ってきているところだった。
短い梯子だったが女性はヒールの靴を引っ掛けそうになっていた。
手を差し出すと女性の左手が伸びてきたが、その瞬間にストールが風に舞った。


「飛んでしまったわね」
「回収しなきゃな」
「良いわよ、特に高価なものでもないの」
「そういう事じゃなくて、あれから足つけられたらマズイだろーが」


そう言ってぐっと女性を引っ張り上げ、代わりにジャンプして降りる。タンっと着地の音がした。ストールを追いかけぐいっと掴んだ後に、もう一度梯子を登った。
女性が手を差し伸べてくるが、その手を取らず腕の力で登りきる。


「それもそうね」


女性は出した手を戻さず、そのままストールに手をかける。
それよりも先にと、覗かなければ見つけることが難しい物陰へとストール越しに引っ張った。




同時に腰を下ろしたところでやっと女性が一つ息をついた。


「この辺りは何もないのね、少し残念だったわ」
「お前は、」


後の言葉が見つからなかった。逃げる間、疑問は増え続け、訊きたいことは山ほどあるのに。
何故追われている?泥棒でもしたのか?あの人は誰だ?案内とはなんだ?
…しかしどれも言葉に出来ずに、吐いたのは溜め息だった。


「ヘレネよ」
「へ?」
「だから、ヘレネ。名を訊きたかったのでは無いの?」


どうやら女性は名を訊かれたと勘違いをしたらしい。ヘレネ、と一度その名を咀嚼する。凛としたその姿にぴったりな名だと思った。


「貴方の名は?」
「俺のこたぁ何も知らなくていい」
「どうして?相手のことを知る為に、名は不可欠よ」
「じゃあ敢えて訊くが、何故俺のことを知りてえんだ?」
「この街を案内してくださった方だもの。私ね、案内してくださる人の名は全員覚えることにしているの」


ふふっと笑いながらヘレネは言った。真っ直ぐ此方を見ながら。


「…俺の名はラシンだ」
「ラシンね、覚えておくわ」


観念して名乗った自分を見て、ヘレネは清々しそうだった。
追われているというのに大した余裕だ。
出会った当初から違和感は拭えない。追われているのにも関わらず焦る様子も無く、逃げることも「案内」と言う。
盗賊のような雰囲気は無ければ、殺人を犯す冷酷さも無い。その堂々とした姿たるや、一国の皇女であってもおかしくはない。


「ひとつ訊くが」
「沢山、質問を持っているのね。いいわよ、答えることは得意だわ」
「お前はなぜこの街を知りてえんだ?」
「決まってるじゃない。自分の目で見たいのよ」

世界を。
と、ヘレネは迷うことなく言った。世界を、と同じ言葉を同じトーンで反芻してもいまひとつピンと来なかった。


ヘレネは空を見上げた。先程よりも少し傾いた月を見て、
「貴方の瞳のようね」
と言った。確かに、黄色く筒抜かれた月は自分の目の色とよく似ている。
そのような情趣は不慣れである為、ラシンは顔を背けてしまう。今日は終始この人のペースだ。
ストールを取ったヘレネの髪は、一層光を反射して輝いている。それは勿論、綺麗だった。しかし、ラシンはそれを口にすることは出来ない。
「俺は月よりも星の方が好きだ」
やっと捻り出した言葉にヘレネは感嘆する。

「そうね、星もいいわね」
「俺の住んでるところは、星がきれーなんだ」
「そうなの」
ヘレネの大きな瞳が一層開く。しかし、そうすることも束の間、ヘレネは突然立ち上がった。


「勝負、ついてしまったわ」
「どういうことだ?」


ラシンの疑問には答えず、ヘレネは続けた。


「ねえ、貴方はこの辺りに本当に詳しいのね」
「いや、別に…」
「もう少しだけ、案内してもらいたいところがあるの」


ヘレネが笑って振り向いた瞬間、月明かりによって無機質に照らされた影が一箇所だけニュッと伸びるのが見えた。
ハッとして振り返ると誰かがあの梯子から顔を出しているのが分かる。その人が、その追っ手が、梯子に手を掛けたまま口を開く。


「お嬢様!見つけましたよ!帰りましょう!」
咄嗟に、逃げなければという選択が横切ったラシンの心配を余所に、ヘレネはもう全く動く気が無いようだった。
お嬢様?今この追っ手の口からはそう聞こえたよな?一拍遅れて、ラシンの頭に疑問符が浮かぶ。


「分かったわ、帰るわよ。本当にケチくさいんだから」


お嬢様と呼ばれたヘレネは慌てる様子もなくストールを肩にかけた。
もしかして、いや、もしかしなくても、ただの家出騒動なのか。ラシンは落胆する。
そんな事に巻き込まれ、時間と体力を無駄にしてしまった。これまでの時間を考えるとげっそりした。


「でも困りましたね、結構遠くまで来ましたよ。帰り道分かりますかね?」
「大丈夫よ」


ヘレネはなに食わぬ顔でラシンを指差す。


「この人が連れて帰ってくれるわ」
「は?え?おい!!」
戸惑うラシンにヘレネは笑いかける。




「ね、ラシン?」


今まで以上に艶やかな声だった。この世の中で、最も美しい顔と形容されてもいい程の美貌。
何度見ても見惚れてしまいそうな顔が、今日一番の笑顔を浮かべる。
お手上げです、とラシンが立ち上がったところに、ヘレネが少し屈んで耳打ちをした。











ねえ、また今度、星の綺麗な貴方の住むところに、案内してね。










クレーターに恋して