バタバタと音をたてて走る廊下
看護士さんに注意されても笑って謝りながらそれでも足をとめず翔けて行く目的地は一つ
少し古びたドアをガラガラと開けると、気配に気づいたキミがこっちを向いて笑った、儚げに。

【至福の音】

「おはようッス!少し遅くなって悪かったッス!」
額の端っこにうっすらと滲む汗を気にしながら、右手の拳を顔の近くにもっていきそして胸の前で両手の人差し指をお互いに向け合ってキュっと倒した
ノクスは弥夜の口元をじっと見ていたが、その動作を確認すると、自分もニッコリ笑って同じ動作を繰り返した

(おは、よう)

冷たい季節から少し暖かくなった今日。こんな会話をするのは何回目だろう、もう恒例になっていた
(みやちゃんおあせかいてるの?)
小さい手で必死に表そうとしている、時々無音の言葉も混じえて。
「外はもう暑いッス!」
まだ覚束ない手振りをしながら窓の方を見ると、ノクスも弥夜の視線を追って其方の方向を見た
春の気候は3日続かないと言われているように、昨日は晴れていたのに今日の空は少し曇っていた
しかしそんな空の対みたいに、蕾もまだたくさんある桜の木のピンク色がとても映えている
この病室の窓から見える桜はほとんど枝先近くだけれど。
まるで空という背景を踏み台にして我こそが春の花だと言わんばかりに。
(あついの、いいねっ)
振り返ったノクスがこれ以上ない笑顔で言った。その笑顔に嘘はない
「ノクスさんは暑い季節好きッスか?」
(すき、だよ!)
(どのきせつもだいすきだよっ!)
ノクスの口が自然と動く。勿論其処から音がのった声はでない。 けれどニコニコと笑うノクスにつられ、自分も笑顔になった。 いろんな苦労があるけれども、この一瞬だけはとても幸せだった
この1年の、苦労を知っているからこそ、


願わくば、キミの聴力がかえってくることを。
(神様…なんて、居るかわからないッスけど…)

「また、キミの声が聞けるといいッスね」
手振りなしで呟いた言葉にノクスは反応してなに?、と人差し指を左右に振った
「桜が綺麗だって言ったッス!」
今度は手をつけながら元気よく話すとそうだねっとノクスも元気よく答えた
こんなときでもキミは笑っている、読唇したかもしれないのに。







至福の音
(きこえるだけで、しあわせ)