人は産まれ出た瞬間からどれも比べものにならない程の漠然とした不安を抱えていて、真正面から受け止めるのが怖いから後ろに引っ提げているけど、背中を覗き込むのだって嫌だから、本当は凄く凄く重いはずなのに知らないフリして無視してる。まだ中身も見ていない、最高の贈り物かもしれないのに。



【サンセット】



近所のおばあちゃんの噂を聞いた。そろそろボケが激しいらしいの、もう長くはないのかしらね、と何時もより小さな声で話してくれたおばさんは悲しそうに笑った。
3秒に1つの命が誕生すると聞いたことがある。嘘か本当かは分からない。もし本当なら次の1歩目で、その次の2歩目で、その次の3歩目の間に、世界の何処かで新生児が泣いて、周りの人が笑っているのだろう。 もし嘘だとしても、6秒に2人産まれているのかもしれないし、もしかすると双子かもしれない。その分産声は大きいけれど、空を見上げて耳を澄ませてもその泣き声は聴こえない。何とも、世界の広さを実感する。


するとある人はこう言った。それなら3秒に1つ消える命がある。3秒でなくとも6秒でも12秒でも何秒でも、それに見合った灯火が幾つか消えるのだと。もしそうならば右足を踏み出した次の瞬間、1つの命が産まれるのに対して1つの魂が消えるのかもしれない。 世界は大きいから、そんな事は実感できない。空を仰いだって耳を傾けたって、周りの涙は拾えない。だから全てを忘れて何気なく1歩を踏み出してしまうのだ。


そう思うと自然に足が止まってしまう。次の1歩が踏み出せなくて自分の爪先をぼんやり眺めながら秒数を数えた。あ、1つ。…2つ。なにも、きこえない。
ふと空を見上げようとして顔を上げたときに視界の隅に見知った顔を捉えた気がして其方を向くと、秋萄と、先程噂で聞いたおばあちゃんが談笑していた。勝手に妄想の被害者にされていた人が普通に生きて、笑って、喋っている事に妙に安心して、右足も、普段の機能を取り戻したようだった。
手で掴めそうなまどろみにそっと近づくと、悲しくなるほど穏やかで、同時に綺麗な笑顔が此方に気付いてもう一度にこりと笑った。



「おつかい?」

無花果が足をとめるのより早く秋萄が問い掛ける。その質問に頷いて肯定してからベンチに腰掛けるその老婆を見た。


「こんにちは、おばあちゃん」
「こんにちは。…えらく可愛いお嬢さんね。あんたの知り合いかい?」


秋萄の方を少し振り返って尋ねる瞳は幼児と変わらないほど無垢できらきらしていた。秋萄は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ固まったが、何もなかったかのようにそうだよ、と肯定する。ちらとだけ無花果を気遣うように見やった。老婆は何も気付かないようで、コロコロと実に楽しそうに笑った。


「ガールフレンドだろう?」
「それは、違うよ」
秋萄がやんわりと首を振る。無花果は否定する気も起きなくて、視線だけを地面に落とす。フラッシュバックする、思考回路。涙が零れ落ちそうになって、慌てて上を向いた。空を見て思い出す。今、いくつの命が産まれたんだろう。そして、




そうしているうちに2人の会話は進んでいて時々笑い声が起こる。釣られて無花果も笑った。
「あんた等が頑張ってるんなら、私も頑張らないとねえ」
夕焼けに笑い声が落ちた。少し遅れて、秋萄が小さく笑った。




歩幅は同じ、伸びる影も同じ、だけど肩が並ぶことはなかった。無花果は足を止める。その様子に気付かず歩き続ける背中に少しだけむっとして、ねえ、と呼びかけた。





「もう、分かんないのかな」




振り返った秋萄の顔を真っ直ぐ見れなくて少しだけ視線を外して呟いた。辺りはしんとしていて、小さめの声のつもりだったのにやけに大きく聴こえた。主語なんて省いたけれど、きっと考えていることは一緒だから分かってもらえると思った。



「多分…」
「そうじゃ、なくて…!」
秋萄はバツが悪そうに無花果から視線をずらす。
「人間だもん。そういう風に出来てるんだよ」
「き、聞きたくない…!」


唇をかんで黙り込んでしまった無花果を、今度は一瞥もしないで秋萄は俯きがちに歩き出した。小柄な体が段々小さくなっていく。一人だけ置いて行かれるのは怖かったから思わず待って、と言って足早に追いかけた。また伸びる影が同じ背丈になった時、秋萄は徐に口を開いた。


「ねえ、無花果」
「…ん」



「…死ぬのが終わりじゃ、ないんだよ」


じゃあ終わりは何処なの。忘れられた時?成仏した時?それとも来世に生まれ変わった時?どれも口から出て行こうとしない。本当は知ってるんだ。自分が事実ばかりを追い回してるなんて分かってる。真実を見つめて、前に進もうとしている背中を、うらやましいとかんじていることも。